村上春樹はノーベル文学賞を取れるのか

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(早稲田に住んでた時の本棚)

 

ご無沙汰してます、ぺんぎんです。

先週はグローバルフォーラムをなんとか乗り切り、土日はライブやスポーツ観戦で遊び呆けていたため更新が滞っていた。

色々と書きたいことは溜まっているが、ひとまず時事ネタであるノーベル賞について書く。

 

現在、日本人が医学生理学賞と物理学賞を立て続けに受賞してニュースは盛り上がっているようだ。と同時に、「研究内容にスポットを当てず、それとは関係ない受賞者の生活などについてばかり報じている」、「そもそも日本人が取ったからといって大喜びするのがバカみたい」、「そもそもノーベル賞にそんな権威なんてあるのか」などなど、批判も多いよう。

まぁそれは置いといて……、今回は、発表まであと6時間ほどに迫った文学賞について。

 

 0 はじめに

文学賞といえば、ここ数年毎回村上春樹の下馬評が高く、毎年この時期になると騒がれているのは周知の通り。

そしてご存知のようにこれは本屋が勝手にやってる予想にすぎず、ノーベル賞財団の思惑は50年経たなければわからない。

最近では、「また村上春樹ノーベル賞を逃す時期が来たか」「村上春樹ノーベル賞芸人」などと、残念なことにネタにもされてしまっている。

 

村上春樹がなぜノーベル賞を取れないか、ということはいろんなメディア・書籍で専門家が書いているが(本人からすれば大きなお世話なのだが)、ざっと列挙すると以下のようなことが消極的事由として挙げられているようである。

  • 66歳とまだ比較的若い(わりと年功序列らしい)
  • 作品が通俗的すぎる
  • 作品に社会性、政治性が無い
  • 日本の文壇での影響力が無い(というか、参加していない)
  • 海外はともかく、日本国内での政治的スピーチなどをほとんどしていない

以下で、重要なところについて僕が思うところを書いていく。

 

1 作品全体の生み出す価値(文体や中身)

① 前提(川端と大江)

よく勘違いされているようだが、ノーベル文学賞芥川賞などと異なり特定の作品に与えられるわけではない。その作家の作品全体・活動全体(に流れるメッセージ)に対して与えられる。

例えば、日本人初の受賞者である川端康成の受賞理由は

for his narrative mastery, which with great sensibility expresses the essence of the Japanese mind

(日本人の心の精髄を、すぐれた感受性をもって表現し、世界の人々に深い感銘を与えたため)*訳はwikiより。

というものである。

確かに、『雪国』、『古都』、『伊豆の踊子』など代表作だけを見ても、日本人の持つ繊細さや心の機微を独特の静謐なタッチで描いている印象がある。

僕は特に『伊豆の踊子』の淡い青春の香りと『眠れる美女』の妖艶でしつこいような女性描写が好きで、繰り返し読んでいる。感受性と表現力は確かにずば抜けていると思う。日本的なものを日本的な表現で描写したところに価値があるのだろう。

 

また、大江健三郎の受賞理由は、

who with poetic force creates an imagined world, where life and myth condense to form a disconcerting picture of the human predicament today (詩的な力によって想像的な世界を創りだした。その世界では生命と神話が凝縮されて、現代の人間の窮状を描く摩訶不思議な情景が形作られている) *同上

というもの。

僕は彼の作品は恥ずかしながらたいして読んでないが、代表作である『飼育』や『死者の奢り』をとっても、粘り気のある(という言葉が僕には一番ピンとくるのだが)独特な文体で、日常的な風景の中に新たな世界を生み出している感がある。

性に関する描写も多く、究極的な状況で生命の意義とかそんなのについて考えされられる内容のものが多い、と思う。

 

② 文学的価値ー文体

では、村上春樹はどうだろうか。

客観的にみると、描写力で新たな文学的価値を創造したというのは無理がありそうだ。比喩がうまいとは言われるが、文章は平坦で、典雅な表現もない。確かに彼の文体はしばしばネタにされ真似されるくらい独特であるが、読みやすく、真似しやすいということは、書くのもそんなに難しくないということだ。

しかし、事はそう単純でもない。そもそも、彼の文章の読みやすさは、彼がまず英語で考えてそれを日本語に訳すという特殊な過程を経て生まれているものであり、そういう意味では、新たな創造だとは思う。そして、これは英語を日本語にすることで余計な表現をそぎ落とすという彼独自の意図があり、また文章をあえて平易にすることで敷居を低くし、読者に物語を純粋に楽しませる、という狙いの上でやっていることであり、安易に平易な文体を用いているわけではない(詳しくは後述)。

僕的にはあのなんというかバタ臭さというか、スカした感じというか、アイロニカルな言い回しとかがたまらなく好きだ。そして、一読して彼が書いたとわかるので、オリジナリティは認められるべきである。

しかし、それはあくまで「日本人にとって」、ということであって、国際的に見るとそんな目新しいものではないのかも、とも思う。というのも、村上春樹がアメリカを始めとする海外でよく読まれているのは、単に彼がアメリカ小説(及び、長く住んだことによるアメリカの空気)の影響を多分に受け、アメリカ的小説を書いてることが大きな理由の一つだからだ。実際に、英語で彼の小説を読むと、非常にスッとくるものがあり、「単に読みやすい文体」とも感じる。

日本の純文学は難しいなぁという外国の人にとっては、読みやすい文体で書かれた村上春樹の小説は魅力的だろう。

そういうわけで、ここはやはり意見は分かれるのではないだろうか(文体に関する専門的知識が必要に思われる)。

しかし、僕自身は、やはりこの彼独自の手法による文体にも文学的価値はあると考える。

 

③ 文学的価値ー内容

では内容はどうか。

まず、構成についてだが、『海辺のカフカ』や『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、『1Q84』に見られるような、数個の物語の同時進行、というのは画期的だとは思う。まぁ東野圭吾とかミステリーではよくある手かもしれないが、純文学として物語に重層性を増すこの手法はやはり面白いのではないだろうか。

次に話の中身自体についていうと、これは話すと長くなるわけだが、ざっくり言えば、作品全体を通しての確固たるテーマはない気がする。強いて言えば、しばしば出てくる「喪失感」ということだと思うのだが、はて。

ちょっと今手元にほとんど書籍がないのであれなのだが……、恋愛小説もあれば、人生のやるせなさみたいのもあるし。単純な冒険小説もあるし。

多分、この点がノーベル賞については問題なんじゃないかと思う。

 

2 通俗的という批判

さて、ところで、上に述べた文体の平易さが、「村上春樹の小説は通俗的だ」と言われる大きな理由の一つである。そして、通俗的とみなされると、ノーベル賞は遠のく。

では、彼の小説は通俗的なのか?

確かに、彼の小説は読みやすい。他の純文学作家の小説と比べるとスルスル読め、面白い。長ったらしい文章も無く、難解な表現も無い。

純文学と娯楽小説の区別に意味があるかは僕も随分悩んできた。そして、正直未だによくわからない。

が、一つ言えるのは、「読み易いからそれで通俗的だ、って短絡的すぎない?」ということだ。

別に、文章なんていくらでも硬くできる。硬いから(あるいは読みにくいから)すなわち芸術的、というのはおかしいだろう。川端なんて色々端折ってわざとわかりにくくしているのでは、とすら思うこともある。

 

もちろん、文章の美しさ自体は大事だ。それ自体に芸術的価値がある。

ところで、僕が村上春樹と並んで好きなのは三島由紀夫安部公房だが、三島はその文章の美しさで知られる。特に有名どころの『金閣寺』とか『豊饒の海』の4部作なんかは、読んでいて、その美しさにため息が出る。よくもまぁ、あんな絢爛豪華な文章が書けるよなと、そして、自分には絶対にこんな文章は書けないな、と思う。

しかし、彼の作品の中にもけっこう通俗的なものは多い。というか、彼はあえて通俗的なのをたくさん書いている(『美徳のよろめき』とか)。でもそれは、物語の複合性とかテーマ性とかの相違があるからそう言っているのであって、単に文体が平易というだけではない。

話が逸れたが、要するに、村上春樹は文体の美しさで勝負しているわけではなく、雰囲気とか内容とかで勝負しているのであって、それで短絡的に「これは通俗的だ」と決めつけるのはどうかと思う、ということを言いたい。

 

9月に出た最新刊『職業としての小説家』でも、以下のように書いている。

 

職業としての小説家 (Switch library)

職業としての小説家 (Switch library)

 

  

そして僕がそのときに発見したのは、たとえ言葉や表現の数が限られていても、それを効果的に組み合わせることができれば、そのコンビネーションの持って行き方によって、感情表現・意志表現はけっこううまくできるものなのだなということでした。要するに、「何もむずかしい言葉を並べなくてもいいんだ」「人を感心させるような美しい表現をしなくてもいいんだ」ということです。

目から鱗である。よく、「頭がいい人ほど難しい事柄を簡単に説明できる」というが、そういうことなんじゃないだろうか。

そして、難しい言葉を並べることで自分の頭の良さ・知識の多さを披露しようとする人が多い中、こうした泰然とした彼の姿勢はやはりすごいと思わざるを得ない。

 

では、文章の読みやすさは置いておくとすると、中身が純文学だと言えるか(通俗的ではないか)が問題になるわけである。

例えば『ノルウェイの森』なんて「単なるラノベだ」とか「ポルノ小説だ」などと散々な罵詈雑言を浴びている。僕も正直、初めて読んだときは「人死にすぎセックスしすぎワロタ」と思ったものである。そりゃあ人が死ねば感動的になるさ、でもそれって安易じゃない?とか思った。

しかし、3,4回繰り返して読むと、そう単純な話ではないと思ってきて、手離せなくなった。二人の少女の間で揺れる微妙な感情とか、生と死の関係についてとか。文章は平易だが、そこに込められているテーマとか物語の素晴らしさは、十分に、純文学が持つそれなのではないだろうか。

まぁなんというかサラッと読んで安易に判断するのは良くないのでは、と思う。『ねじまき鳥クロニクル』とか、大部の作品には結構難解なものもあるし。

ただ一方で、あのチャラい感じとか、性描写とか、どうしようもない拒否反応を起こす人がいるのもよくわかるので、嫌いな人に押し付けるようなことは個人的にしたくない(ゆえに、いわゆるハルキストが気持ちがられるのもよくわかるし、僕もそう呼ばれるのは嫌いである)。

 

3 社会的(政治的)影響力

また、ノーベル賞受賞にあたっては、文学的価値に加えて、特に政治的メッセージに代表される社会性が必要とされるらしい。

単なる「社会的影響力」ということで言えば、いわゆる純文学にもかかわらずこの時代にあれだけ本が売れ、多くの日本人が一度は読んだことがあり(少なくとも名前を知らない人はごく少数だろう)、海外の人にもよく知られているので、イエスということになるだろう。僕も、アジア、欧米問わず、今まで数え切れないくらいの村上春樹ファンに会ってきた。

 

しかし、「政治的」影響力はどうか。

例えば、大江健三郎は、周知のように、積極的に戦争や憲法についてのメッセージを述べている。これが大きかったと聞く。

村上春樹の場合は、まず、小説の中で社会的な話題を扱うことはそう多くない。レズビアンを扱った『スプートニクの恋人』、サリン事件を扱ったノンフィクションの『アンダーグラウンド』、戦争について描写した『ねじまき鳥〜』などもあるが、そんなにないのではないだろうか?パッと思いつきませんが。

 

また、小説執筆以外では、エルサレム賞の時の卵と壁のスピーチが有名だ。日韓関係について新聞か何かに寄稿しているのも見たことがある気がする。

しかし、根本的にメディア嫌いなのでテレビなどの公の場所にはほとんど出ない。なんせ、選挙にも行かないくらいの人である。決定的に社会性がない。

メディアに出たとしても海外メディアばかりであり(日本のメディアの姿勢が根本的に嫌いなのだと思う)、国内での社会的活動はほとんどないと言っていいと思う。

また、文壇についてもそうで、例えば川端はペンクラブの会長をやっていたということだが、村上春樹は参加すらしていない(そういうめんどくさい人間関係が本当に嫌いな模様。スーツも毛嫌いしている)。

まぁ、どうせ賞をあげるならそういう地位がある人が好ましいだろう。こんなところがマイナスに評価されているようである。

 

4 文学賞について・まとめ

① 芥川賞を取れなかった問題

さて、そもそもの話として、ノーベル賞を取る意味はあるのだろうか。

それに先立ち、芥川賞について。

実は、上でも触れた『職業としての小説家』で、彼自身文学賞について語っている。

いわく、

芥川賞について)

いちいち自分の名前のわきにそんな肩書きがついたら、なんだか「お前は芥川賞の助けを借りてこれまでやってこれたんだ」みたいなことを示唆されているようで、いくぶん煩わしい気持ちになったんじゃないかという気がします。(中略)ただの村上春樹である(でしかない)というのは、なかなか悪くないことです。  

村上春樹芥川賞の選考に残っていたにもかかわらず受賞しなかったのは有名な話である。今では、「村上春樹を取りこぼしたことはこの賞の最大の汚点」、などと言われ、「なぜ村上春樹は受賞できなかったか」ということがしばしば議論される。エッセイのこの章は、こうした疑問に対するアンサーとして書いている。

しかし、それってそんなに問題か?」と。だって、芥川賞なんて、話し合いの上とは言え、何人かの選考委員が、独断で決めるんだもの。そこには好き嫌いもある。スポーツや試験と違って点数で割り切れるものじゃないのだから。

特に、村上春樹の場合は好き嫌いがはっきり分かれるんだし、時の運で選ばれなかったとしても、なんらおかしくはない。

  • 蛇足だが、彼の小説に対するスタンスは、(正確なワードは覚えてないけど、)「9割の人が嫌っても1割の人が心底好きになってくれればそれでいい」みたいなものと言っている。これはデビュー前のジャズバー経営の時に得た経験則らしい。これは多くの商売に通用する考えだと思うし、人間関係についても、「みんなに好かれるようなアクの弱い人間になってもしょうがない」という風に肩の力を抜いて自分のやりたいようにやれば、スッキリするのではないだろうか。

そもそも、芥川賞は日本ではもっとも有名な賞だか、あくまで「新人に対して与えられる賞」にすぎない。サッカーで言えばアンダー21のようなものだ。そこで選ばれた人のうち、一体どれくらいがその後も代表に残っているのだろうか。

芥川賞に関しては、受賞作品を読めばわかるが、インパクト重視の作品(悪く言えばイロモノ)が多く選ばれているような気もする。

そして、村上春樹についていえば、候補に残った初期の2作(『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』)のその後にかけて作風が大きく変わったのは周知の事実。しかも、このエッセイの中でも述べているが、彼は処女作をわりとササッと思いつきで書いたのだから、そこで評価されなかったことが一体なんの意味を持つのだろう、と思う。

 

② そもそもノーベル賞を取る意味はあるのか

このエッセイの中で、ノーベル賞についても語っているが、概ね否定的である。

そして、そもそも、「賞の意義を勝手に他人が決める」ことについてかなり否定的である。下の引用をご覧いただきたい。

文学賞は特定の作品に脚光をあてることはできるけれど、その作品に生命を吹き込むことまではできません。

 

 そのように、賞の価値は人それぞれによって違ってきます。そこには個人の立場があり、個人の事情があり、個人の考え方・生き方があります。いっしょくたくに扱い、論じることはできない。僕が文学賞について言いたいのも、それだけのことです。一律に論じることはできない。だから一律に論じてほしくもない。

 

もっともだと思う。

そもそも彼は根っからの反体制・反権力だから、こういう権威的な賞にあまり意味を見出していない。

では、じゃあ全く要らないと思っているかというと、それは違うと思う。そりゃ、もらったら嬉しいでしょう。だから、仮にもらったとしてもさすがに授賞式をすっぽかすということはないだろう、と想像だが思う。

しかし、別にノーベル賞を取るために活動をしているわけじゃないのだから、周りが勝手騒ぎ立て、勝手に落胆している状況は、本人からすれば疎ましいの一言だろう。

 

③ で、結局、ノーベル賞は取れるのか

少なくとも、文学的価値はあると思うし、通俗的という批判はかわせると僕は思う。しかし、作品に一貫性と社会性が無いのは間違いないし、社会的・政治的活動の少なさも認めざるを得ない。年齢的に若いのもそうである。アジア人枠はしばらく来ないだろうという考えも納得がいく。

なので、結論は、というと、正直わからない。そもそも、僕は過去のノーベル賞受賞者の作品をチェックしているわけではないし、選考基準についても結局はよくわからないからである(最後投げやりですみません)。

 

というか、本当はもっと客観的に書くつもりだったのだけれど、どうしても感情的になってしまった。

僕は彼に取ってもらいたいのだ。毎年毎年そう思っているのだ。日本人としてとか、早稲田の学生としてとか、一ファンとしてとか、そういうのもあるけど、根本的に自分と彼とが同じ側の人間だと思っているから、それが正しいことを認めてもらいたい、のだと思う(権威が欲しいというのは彼とは相入れませんが……)。

 

なんだか最後は気持ち悪くなってしまった。本当は発表をライブ中継で見たかったのだけれど、明日のその時間はなんとボートの練習なのです。。

 

取れても取れなくても、また村上春樹については書きたいと思う。取れているといいですね。