弁護士になるー弁護士バッジ雑感

 

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だいぶ遅ればせながらですが、帰国とともに弁護士バッジを受け取りました(弁護士会は年末年始休暇に入っていたので友人に代わりに受け取ってもらってました)。

バッジを手にすれば弁護士になった実感が湧くかな?とも思っていましたが、なんともいえません。バッジも改めて手にとってみると結構ちゃちいし、桐の箱もなんか軽いし。これをつけて仕事に行くわけでもなし。

ひとまず、父がバッジを喜んでくれたのでそれが何より嬉しかったです。

 

バッジについては少し思うところがあります。東京の弁護士ってあまりつけてない気がするんですけど、大阪の弁護士って結構つけてるんですよね。法廷や弁準もそうですし、西天満を歩いていてもよく見かけます。弁護修習先の先生は普段はラフな格好をしていてバッジもつけていないものの、法廷に出るときはかならずバッジのついたジャケットを羽織って、「これは私の血と汗と涙の結晶や」と誇りを持っていて、かっこよかったです。どこかでぶつけたというひしゃげたバッジ。先生らしさが詰まっています。

 

ボスの85歳くらいのおじいちゃん先生もずっとつけていました。いぶし銀のバッジは先生の歴史と重ねてきた年月を象徴しているようでした。

対して東京は(というより企業法務は?)、つけてるとダサい風潮があります。これは「弁護士の象徴たるバッジに頼っているのはかっこ悪い。それに頼っているようじゃダメだ」という姿勢を表すものだと思います。弁護士であるだけで満足してはならず、様々な付加価値をつけていかないといけない、それはそれで一つの心意気です。

でも、すこし天の邪鬼でひねくれた感じがします。素直に真っ直ぐにバッジに誇りを持っている大阪の弁護士の姿が、古き良き弁護士を体現しているその姿が、僕にはとてもかっこよく思うのです。

昔大阪に旅行で行った時も、阪急電車かなんかでバッジをつけている若い弁護士の姿がいたのをよく思い出します。あの頃の僕には輝いて見えたものです。

 

とはいえ、実際に自分がつけてみると、街なかでバッジをつけているのはやはり気恥ずかしい、というのもよくわかりました。修習生バッジは世間的に知られていないから問題ないんですけど、弁護士バッジはよく知られているし、何より分厚くて金ピカでとても目立つのです。なんか弁護士であることをアピールしているようで、「趣がない」というのも少しわかってしまいました。それに弁護士がやたら批判されている昨今、変な人に絡まれないとも限りません。公の場で弁護士であることを言うとややこしくなるんだなぁ、というのがよくわかります。

でもそれは金ピカゆえ自分が成り立てであることを示しているからに他なりません。いぶし銀になればまた違うのだと思います。

 

では僕はこれからバッジをつけるのか?というと、僕は企業法務の弁護士で、さすがにオフィスでつけている人は文字通り皆無です。ここまで言っておいてなんですが、当面はバッジをつけて仕事をすることはなさそうです。東京の弁護士になってしまうのです。弁護士になるからには訴訟活動もしたいと考えており、そのときはバッジをつけて弁護士らしく振る舞ってみたいものです。

 

前掲の修習先の先生は、人数が多くて忙しそうな企業法務の大事務所に行く僕のことをいつも心配してくれていました。「何かあったらいつでも大阪に帰ってきなさいよ」という言葉とともに、「やってる仕事は違っても、つけてるバッジはおんなじやで」という言葉をくれました。

先生がやっている仕事と僕がやる予定の仕事は人権派と企業法務で全く違います。でも「弁護士」であるという面、その自負と矜持を持っているところはおんなじなはずです。大好きな言葉です。先生のところで学んだことを忘れずに頑張っていきたいです。