祖父と母との思い出

今日の朝、父から、母方の祖父が亡くなったとの連絡があった。
実は僕が渡米直前に倒れて、それ以降意識が無くなっており、もう長くはないと医者に言われていた。

渡米が決まった時からそろそろ危ないかな、とは話していたので、もし渡米後にそういうことがあれば一時帰国するつもりだったが、直後すぎるし、渡米前に現れた症状で亡くなった場合は一時帰国費用の保険も降りないだろうということで、葬式には来なくていいよということになっていた。そういうわけで、羽田に行く前に家族で病院に行き、別れの挨拶をしてきた。それからずっと意識が戻らず、医者には8月上旬だろうと言われていたので、毎日訃報のメールが来るんじゃないかという嫌な感覚に襲われていた。しかし僕の試験も終わり、こっちの生活に慣れ、こういうのも何だが少し神経が弛緩していたときに、連絡があった。

一応脳溢血であるが、年齢的にも老衰であるし何しろもう90を超えていたから、大往生だ。お疲れさまと言いたい。

ブログの趣旨には反するが、葬式に出れない代わりというか、追悼の意味でも文章にしておこうと思う。


実は、祖父とは折り合いが良くなかった。僕が14の時から一緒に住み始めたが、彼は典型的な堅物で、若者は全て悪、楽しむことは悪、そういう性格だった。
これは祖父の出自に起因している。というのも、彼は5人(たしかそうだったと思う)兄弟の長男で、弟たちを学校に行かせるために自分は泣く泣く大学進学を諦めたらしい。しかし頭が良かったんだろう、日銀に勤めた。
高齢者は、「自分が苦労したから後進にはこの苦労を味あわせたくない」か、「自分が苦労したことを後進も味わえ」、どちらかに大別できると思うが、祖父は後者の典型だった。僕らが大学に進学できたり、楽しんだり、少し贅沢することが羨ましく、妬ましいのだ。自分が出来なかった贅沢さを享受している僕らが羨ましいのだ(といっても普通の水準程度だと思うが)。僕は、その気持ちはわからないことはないが、心が狭いな、と思っていた。

とりわけ僕は浪人して私立大学に行かせてもらい、アメリカに留学までさせてもらっているので、風当たりは強かった。頑固さが似たようで、色々と言い合いをしたのを思い出す。

今でも思い出すのは、受験のときのことだ。ある大学に落ちてしまったのだが、僕に取っては滑り止めのつもりだったのでだいぶへこんだ。それを祖父に報告したら、首を横に振って、「お前は本当にダメな奴だな」と言われた。さすがにこれは酷いだろう、と絶句した。彼なりの激励だったのかもしれないが、おそらくそうではないだろう。

僕が髪を金髪にした時は、「お前は何考えてんだ、そんなに髪を赤くして」と言われ、「赤じゃねぇよ金だよ」と言い返したこともあった。まぁ、これはどの家庭にもある下らない口喧嘩かな。


そんなわけで、僕が去年一人暮らししていることも内緒にしていたり(ここしばらくはずっと介護ホームに入っていた)、溝は深かった。

それでも、2年半前に娘―つまり僕の母であるが―が病死してからは、途端に優しくなった。まさしく丸くなったという感じで、今までのしかめっ面や罵詈雑言は陰を潜め、柔和で穏やかな顔になり、我々に感謝の言葉を言ってくるようになった。母の葬儀を父が取り仕切ったり、それからは父が母に代わって彼の世話をしたりしたから、それに対する感謝の念が出たのだと思う。娘の死自体も相当ショックだったのかもしれない。一人娘で、相当にかわいがっていたようだから。

あるいは、娘が死んだことで、自分の死をより直接的に感じるようになったのか。祖父はずっと「早く死にたい」とぼやいていたが、その内心は正直よくわからなかった。もう90年も生きれば十分だし、色々体の不調に悩んだり自分の居場所が無いと感じて辛い思いをするくらいなら、もう死んでしまったほうがラクということだろうか。あるいは、単純に構ってもらいたかったのか。両方な気はするが、今でもわからない。

そういうわけで、ここ2年くらいは、僕がたまに会いにいってもすごく優しくしてくれた。そして、僕のアメリカ行きを心から喜んでくれて、自慢に思っていてくれたようだ。「勉強大変だと思うけど頑張れよ」なんてことを言ってくれた。
そして、渡米の1週間くらい前、久々に会いに行くと、とても元気な様子で、そんなことを話した。それから数日して意識が無くなったので、それが最後の会話になった。僕と最後に話して、本当に死ぬ準備が出来たのかもしれない。



不思議なもので、母さんが死ぬ前に意識が無くなった時も、そんな予兆はあった。3年前の12月23日、クリスマスプレゼントを持って病院に会いに行くと、いつもより優しい笑顔で僕に接してくれて、僕の名前の由来なんかの話をした。時々ぼうっと虚ろな目で壁を見て、要領を得ないことを言ったりしていた。もうあっちの世界に片足をつっこんでいたんだろうなと後になって思う。最後に「じゃあね」と手を振った時のことも、なんとなく不吉な予感がしたことも、そのときの母さんの顔もよく覚えている。

そして翌日の昼、父が、僕に「喪服を買いに行こうか」と言った。僕はそんなの冗談だろうと思った。母がそろそろ危ないことはわかっていたが、心の中では、そんなことはないだろうと思っている。現実から目を背けたいのだ。しかし、父の言葉でそれが形を持った現実として目の前に現れたような気がした。
喪服を買って、家に帰ってしばらくすると、病院から電話があった。信じられなかったが、その時が来てしまったわけだ。それからすぐ病院に行って、その晩は僕が病院に泊まった。もちろんもうずっと意識は無い。死んだのは翌々日の26日になってすぐで、まるで、僕らが永遠にクリスマスを楽しめなくなることがないように頑張ってくれたかのように思えた。

喪服を持っていなかったことからもわかるように、当時は僕の祖父母は珍しく4人とも健在で、親戚も結構長生きだったから、葬式なんてものはもう10年も出たことがなかったのだ。記憶に残るものも中学のときの2回くらいで、自分が親族として出席するのはこの時が初めてだったかもしれない。そんな初めての葬式が自分に一番近い母さんだったというのは、正直言ってかなり辛いものだった。
そして、それで堰を切ったかのように、祖父や親戚等が亡くなりだした。今回の母方の祖父で、母さんが死んだあとの4人目だ。死っていうのはつくづく不思議なものだと思った。



祖父が死んだその日にこんな淡々とした文章を書くのもどうかと思う。しかし、僕の中では既に覚悟を決めてきたことだし、やはり日本と離れすぎているからか、実感が湧かないのだ。

しかし、こうして人の死に接するたびに母さんのことを思い出す。未だに、母さんにクリスマスカード(メッセージ)を書いてあげられなかったのが心残りである。プレゼントと一緒に渡そうと思ったけど、いざメッセージを書くとなるとなんて書けばいいかわからない。いつもそんなこと言わないのに「育ててくれてありがとう」なんて書くのは、死を認めてそれに対する準備をするようで嫌だったからだ。だからか、母さんも僕に特別な話はしなかったんだと思う。僕の子供の頃の話とか聞いておけば良かったなとも思うけど、あの当時の状況を思い出すと、仕方なかったかなとも思う。でも、やはり、直接自分の口から上の言葉は伝えたかった。


そういうわけで、母さんが死んでからは悔いが残らないように人と接するよう心がけているつもりだ。ここ最近の「やらない後悔よりやった後悔」というモットーみたいなのも、ここから来ていると思う。
実際にできているかはわからないし、完全に悔いが残らないようにするのは無理だろう。祖父とももっと話したいことがあった気がする。でも、最後にきちんと挨拶ができたし、これで良かったのかなという気がしている。

祖父も、楽になれて今はホッとしているんじゃないだろうか。天国で母さんと会っているのかな。母さんは祖父の世話に手を焼いていたから、天国でもまた世話をしなければならないのか、とか思っているのかもしれないけれども。

今までありがとう。冥福を祈ります。