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ぺんぎんぺーぱーちぇーす -PennLawLL.M.留学記-

University of Pennsylvania Law School LL.M.(ペンシルベニア州フィラデルフィア)を修了し、日本に帰ってきました。留学時代のことやアメリカのことなどを細々と書いていきます。

映画『人喰い族』感想—単なるB級グロ映画かと思いきや,教訓に満ちたまともな映画だった。

その他

 

TSUTAYAなどに行って「たまにはホラーでも見るか―。B級のスリラーもいいな」と思って棚を見てると必ず目に入るこの作品。タイトルのインパクトとジャケットの強烈な絵面に興味は湧くのだが,それがグロすぎて観る勇気は出ない。

※なお、有名な『食人族』とは全くの別作品です。

 

この度,気が向いたのでついに借りて観ることにした。

観始めると,演技の切れ目が悪く,音楽もワンパターンで「やっぱりこんなもんかな」と思った。一方で,あまりグロいシーンは出てこない。期待はずれだなぁと思った

その後さらに事態は思わぬ展開を迎え,更に期待はずれになり,「とんだクソ映画だわ」と思うのだが,どっこい,そこから更に急展開を迎え,目が離せなくなってしまう。

 

[ネタバレあらすじ]

人喰族

あらすじについてはこのリンクで確認してもらうとして,あらすじを補足の後ネタバレ感想を述べます。

 

 

※以下ネタバレ※

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[ネタバレあらすじ補足]

つまり,死体を作ったのはマイクで「なんだ人喰い族なんていねぇじゃん」ととんだクソ映画かよと思うのですが,その後原住民の若者が登場し、彼らが人を喰うシーンが出てきて,やはり人喰い族はいたことを知らされるわけです。

最終的にジョセフは病死,ルディ,マイク,パットは人喰い族に殺されます。グロリアは人喰い族の1人を助けたことで,その人喰い族に救い出してもらい,命からがら逃げ出し,ニューヨークに生還します。

最終シーンで,グロリアは「カニバリズムは存在しない」という趣旨の論文でニューヨーク大学から博士号を授与されます。

 

 

 

[以下ネタバレ感想]

この映画のテーマは,主人公のグロリアが言っているように,「白人主義・文明至上主義への反省と批判」です。

劇中では,マイクが原住民の平穏な生活に利己的な目的で入り込み,荒らし,さらには原住民を理不尽に殺してしまうシーンが出てきます。しかし,原住民を下に見ているのはマイクだけではありません。虫を食べる原住民を見て主人公の3人が気持ち悪がったり,マングースを身代わりに使うことに一応は納得しながらも,ヘビがマングースを襲う姿を見て(無責任にも)マングースに同情したりするシーンがあります。トラが小動物を襲うシーンもあります。

さらに,原住民や動物だけでなく,コロンビアの現地の人への侮蔑もあります。シャワーが無いと聞いてありえないといい,こんなところに来るんじゃなかったと言ってる冒頭のシーン,更にはニューヨークから来た警察が現地の警察に横柄に振る舞う最後の方のシーンががそれです。

 

すなわち,文明人たる白人(アメリカ人)の頭のなかでは

文明人・白人(アメリカ人)>南米の白人(ラティーノ)>原住民(未開人)>肉食動物>草食動物

という図式ができあがっていることになります。すなわち,ルディのセリフにも出てきましたが,彼らは強い者が弱い者を食らうという「弱肉強食」はやむを得ない自然の摂理であるとして,一応は納得しているのです。

しかし,「カニバリズム」には強い嫌悪を示しています。そんなバカバカしい話はあるわけないと思っています。ここで,なぜ「カニバリズム」だけこの弱肉強食の連鎖から外れるのかという疑問が出てきます。同じ人間の中ですら序列があるのだから,人間が人間を食べる,ということがあってもオカシクないはずです。

そもそもカニバリズムは明らかにおかしいものと本当に言えるのでしょうか?他者の命を食べるという意味では,我々だって,動物の肉を食べているわけです。肉食動物は,草食動物を食べています。それを見ても,もはや当然のこと,必要悪,自然の摂理として不条理だとは思わない。では,なぜ強い人間が弱い人間を食べる,となるとそんなのはおかしいとなるのでしょうか。

確かに,「同じ種族だから」とか「相手が可哀想から」といった意見はもっともだと思います。単に同族嫌悪というか「同じ(似ている)ものは気持ち悪い」というのはあるでしょう。しかし,動物の中には共食いを行う種族もいます。相手が可哀想だから,というのは他の動物にも当てはまるはずであり,人間だけなぜ特別扱いされるのかの十分な説明にはなりえません。

思うに,我々は「都合のいい想像力(共感力)」を使っているのではないでしょうか。すなわち想像力が真の意味で欠如していれば,人間も構わず食べるはずです。他方,想像力が十分にあれば,動物などを食べることもできないはずです。そのくせ,人間を殺したりするし,殺すことについてはその情状に接し,一定程度の共感・同情を覚えることも無くはありません。殺すのはやむを得ない場合もあるのに,食べるとなると強い拒否反応を示します。むしろ,「殺す」より「食べる」ほうが欲求に適っているといえるのに,です。実際,屠殺の現場を目にすると誰でも目を覆いたくなりますが,牛の肉は平気で食べています。

「いや,それは仕方ない,我々は動物の命をもらわなければ生きられない。弱肉強食だ」という批判もあると思います。しかし,別に動物を食べなくたって生きてはいけます。タンパク質は豆類から十分に摂れるし,実際に欧米にはベジタリアンやビーガンの人も多くいますが,彼らは普通に健康に生きています。

そうすると,「命あるものを食べてはいけないのだから,じゃあ植物や野菜もだめなはずでは?」ということになります。これに対しては「植物や野菜には意思も感情も無いのだから共感しようがない」という反論がありそうです。しかし,植物や野菜に意思や感情が無いことは科学的に証明されているのでしょうか?もしかしたら,植物にもこれらはあるのに,単にそれを(少なくとも人間に)伝達する手段が備わっていないから気づいていないだけかもしれません。「野菜にも命がありそれをもらっている」という殊勝な人もいると思いますが,多くの人は野菜に対しては罪悪感を感じないでしょう。これもある意味想像力の欠如なわけです。

植物には知性や感情があると考える科学者が急増(各国研究) : カラパイア

(実際に,植物に感情などがあるとの研究成果もあるようです)

 

さらに弱肉強食は仕方がないと思っているわりに,原住民がすっぽんの肉を食べているシーンは残虐で生々しく(文字通り生の肉を食べているからですが),視聴者は不快感を覚えます。しかし,我々(日本人を文明人の一つに加えても誤りではないと考えられます)もすっぽんを食べます。さばく姿を見ていないだけです。それに,馬刺しのように生の肉だってそのまま食べることもあります。つまり,実質的には同じことをしているのに「原住民がすっぽんを切り裂いて内蔵を取り出しそれをそのまま食べる行為は野蛮」と思っているのです。

それは結局,2つのものの異なった部分と共通した部分のうち,共通した部分を都合よく捨象して,異なった部分を都合のいいように大きく扱っているにすぎません。

 

劇中では,5人のアメリカ人に皆名前が与えられ,それぞれ見た目,性格とも大きく異なっているのに対し,原住民は(後述する例外を除いて)一貫して没個性的な存在として描かれています。名前が無いのはもちろん,皆一様に同じような姿で,言葉もほとんど発しないし,特徴的な動きもありません。ワンオブゼムとしか見てないわけです。

これは,我々が動物や植物,さらには「他の人種」など自分から遠い存在のものを「個性がない」存在として扱っていることを示しているのだと思われます。すなわち,個性がなければ共感のしようがないのだから,雑に扱っても問題はない,ということです。

しかし,アメリカ人の中で唯一,グロリアは彼らに個性を見出します。マイクに銃殺された少女,そして,逃げるように言った少年がそれです。少年は,実際にグロリアに助けられたことに恩を感じ,最終的に彼女を助け出してくれます。恐らく,これが,5人の中で唯一グロリアが生還できた理由でしょう。彼女は原住民を自分と同じ人間として見ることができたのです。

 

グロリアは,最後のシーンでニューヨーク大学から人類学の博士号と栄誉ある金メダルを授与されます。その論文のタイトルは,「カニバリズムーその神話の終焉」です。つまり,グロリアは論文で,自分の体験と事実に反し,カニバリズムの存在を全否定したわけです。

これは,単純に「あの惨劇を思い出したくない」というのもあるかもしれませんが,「文明主義・白人主義を反省し,原住民を尊重しそっとしておきたかったから」と捉えるべきでしょう。仮に論文でカニバリズムの存在を主張した場合,村に研究チームが入り,彼らの生活は脅かされるばかりか,殺人種族として抹殺されるかもしれません。しかし,それは結局文明人のエゴでしかすぎないわけです。そして,その「文明主義への反省」によって,文明のメッカたるニューヨークの名誉ある大学から,科学の博士号という文明主義の象徴ともいえるものを取得したのは,皮肉としか言いようがなく,グロリアの遠くを見るような死んだ目がその全てを物語っています。

 

「命を大切にしよう」というとごく月並みでありふれていて,単なる美辞麗句のようにしか思えませんが,残虐なシーンをもってそれを示したこの映画は,妙な説得力があるように思えます。 (なお,「原住民こそ人を殺し肉を食べているのだから命を大切にしていない」とも言えそうですが,無差別に殺しているわけではなく,遺体も丁重に扱っていることから,他の動物と同様必要性があるときにのみこれを食べている,と僕は解釈しています。侵入者や危害を加えた者の肉しか食べないのかもしれません)

僕はこの映画を観て「動物の肉は食うな」とは言いませんし,僕はこれからも食べていくと思います。この映画が言いたいのは,それよりもむしろ,「人間同士人種や文化が違っても尊重し合おう」ということだと思います。もちろん,それも結局人間のエゴであり,人間だけを特別視するのは上に書いたことに反するわけです。しかし,逆説的ですが,「まずは少なくとも同じ人間くらいは大切にしようよ」ということは言えるのではないかと思います。

他の人種の人を見ると,「みんなおんなじに見える」というのは結構あると思います。同じように,小さい赤ちゃんはみんなおんなじように見えるし,老人もそうです。つまり,「自分から遠いもの」はその個性がつかみずらいのです。

 

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ムルシエラゴ LP 670-4 スーパーヴェローチェ '09 - GRAN-TURISMO 6 (グランツーリスモ6) 攻略Wiki より)

この車を見て,「スーパーカーだ」と思うか「ランボルギーニだ」と思うか「ムルシエラゴだ」と思うか,「ムルシのスーパーヴェローチェだ」と思うかは,その人がどれだけこの車に興味があるか,知識があるかによって違います。ドイツ語の文章を見ても,僕はドイツ語はわからないので何が書いてあるかわかりませんが,英語ならわかります。同じように、他の人種の人でも,慣れてくると国籍の違いとかも予想がつくようになってきます。

つまり,これも月並みな表現ですが,「自分と違ったものを理解しようとする」というのが異人種間・異文化間では極めて重要になると思います。そして結局それは「命を大切にしよう」ということに戻ってくるのかもしれません。

トランプが大統領になり,人種間の軋轢が顕在化している今,鑑賞に値する映画だと思います。いい意味で騙されたなぁ。

 

※あくまで悪趣味なグロ映画です,殺人,動物虐待など不快なシーンばかりなので,鑑賞は自己責任で。