アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所(小説)

アメリカにいたとき、昔のファイルを漁ってたら、大学2年生のときに書いた小説が出てきた。

小説を書くとか厨二病の極みの黒歴史と言ったところだが、当時は色々と文献を参考にしながら至極マジメに書いていた。5万字を超えたところで筆が止まっており、未完。

フィクションで、舞台は旅行で行ったポーランドクラクフ(とケルンの予定だった)。そこに日本人学生(シュウ)が留学しているという設定で書いた。前の前の留学の前だから、留学生活は完全に想像で書いている。

で、その中でアウシュビッツを訪れるシーンがある。アウシュビッツを知ってもらうのに中々いいと思うので、僕が撮った写真とともにせっかくなので引用する。

長いので、アウシュビッツに興味があるとか、ぺんぎんの小説がどれほど駄作か、などの興味があれば読んでくださると嬉しいです。

 

*このシーンは、僕が実際に2011年2月にアウシュビッツ・ビルケナウを訪れた体験を元にしています。

**また、収容所、ナチス及びヒトラーについての記述は、史実を参考にしています。

***ただ、あくまでフィクションであり、主人公は僕とは別人格の存在です。僕の考えと彼の考えは同一ではありません。

****実際には一人で行きましたが、小説では二人の男性(パオロ、ジーノ)と行ったとしています。この二人は実在の人物をモデルにしており(それぞれ、ワルシャワで知り合ったイタリア人、タイのチェンマイで知り合ったチリ人の弁護士)、二人なら何て言うかなぁというのを想像して書いています。

 

 

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[登場人物]

シュウ…日本人の大学生。21歳。172センチ、痩せ型。東京の私立中高出身で金持ち。英語はうまい。のんびりしがてらクラクフに留学している。頭はいいが,主体性は無い。妙な倫理観が強く,考え過ぎで,融通が利かない。自尊心が強く,そのため他人を見下しがち。余裕がなく,常に誰かと戦っている感じ。

ジーノ…チリ人弁護士。30歳。185センチ、ガッシリした体格。遊びがてらワーホリでクラクフに来てる。気さくで陽気で女好きだが,妙に説得力がある。

パオロ…イタリア人。26歳。177センチ、細身だが意外と体格は良い。クラクフに留学しており,シュウのルームメイト。いい加減でいつもニヤニヤしており,目は虚ろで何を考えているかわからない。たまに核心をついたことを言う。

 

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 その日になった。僕はいつもより早く目が覚めた。これから世界最大の負の遺産を見るのかと思うと憂鬱であったが、同時にどこか誇らしい自分がいるのを隠せなかった。こういう所に行くというのは、それだけの問題意識があり、ある程度の知識が無ければ有り得ないことである。つまりアウシュビッツ訪問は僕がそれを有することの証明たり得るのだ。

 僕は最近の日本のマスコミに見られる商品の煽情的なブームづくりの表現を嫌悪していた。皆その商品が好きというよりは、「それを好きでいる自分」が好きであろうことに間違いは無いと思っていた。考えてみれば酒というのもそうで、文字通り酔っている自分に酔うことで自分を救うことになるのだろう。そうした自分がいることに気付かないふりをするのも酒の力を借りるのならば容易だ。こうした自己陶酔による救済は別に今僕が思わなくてもある意味世の中の真理であろうし、皆それを知りながらも、敢えて口に出しては言わないだけだろう。それはタブーであり、沈黙は一つの不文律だった。

 なぜなら皆、「自分だけは」そんな陳腐な陶酔に浸っているのではないと思っている。「自分だけは」、そんな安易なことはしないと思っている。なんて下らないことだろう、と僕は思った。そうやって自分は他人とは違う存在であると考えるその思考自体が、皮肉にも自分が他人と似通った凡庸な人間であることの証明なのだ。しかしこう考えて自分の特権性と優位性を感じている僕もまた、他人から見れば浅はかに見えるのだろう。自分に自信が無い人間ほど自己の優位を主張したがるものだという。これは堂々巡りで延々と続くことであり、優位を感じた時点で逆説的にその優位は霧消する。であるならば、結局他人と違う特異な人間というのは存在するのだろうか、そして例えそれが存在するならば、一体その差異は何に存するのだろうか。

 パオロと食堂に行くと、ジーノは既に席に座ってコーヒーを飲んでいた。三人で連れだって外へ出た。

 

***

 

 僕たちはコペルニクスが通ったことでも名高い、ヨーロッパ有数の大学の一つである重厚なロマネスク建築のクラクフ大学の脇を通り、開放感のある旧市場広場を抜け、フロリアンスカ通りを暫く進み右に逸れた。丁度ジーノがアルバイトをしているというポーランド料理屋の脇だった。しばらくすると十時を告げるラッパが鳴り響いた。

 「このツアーってのはどういう仕組みなんですか」

 「主に海外から来た旅行者向けの英語ツアーでね、ホテルやユースホステルから手配することが出来る。ピックアップ付きでね、バスがそれぞれの参加客の宿を回って来るのさ。恐らく俺たちが最後の客だろうな」

 と話しているとバスが来た。添乗員は快活で眼鏡をかけたふっくらとした若い女性だった。恐らくポーランド人だろう。流暢だが聴き取りやすいはっきりした英語で僕らのチケットを確認し、それが終わると僕達はバスに乗り込んだ。乗客は白人の老夫婦が多かった。若い人はあまり来ないだろうし、別に楽しくツアーに興じるというわけでもない。

 「オーケー、みんな揃ったわね。さて、これから私たちはアウシュビッツ強制収容所とビルケナウ強制収容所に向かいます。アウシュビッツまでは一時間くらい。そこでグループに分かれて見学をしたあと、今度はまたバスに乗りビルケナウに向かいます。そっちまでは大体十五分くらいね。クラクフに戻ってくるのは夕方頃。今と同じようにそれぞれの宿を回るから、解散は順次ね」

 

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 バスの車内は、これから世界最大の負の遺産へと向かう空気に深くどんよりと覆われていたが、かと言って皆が皆神妙な顔つきをしているというわけではなかった。笑顔も見られたし、どういうわけかピクニック気分に思える参加者もいた。僕は何にでも形から入るほうだから終始無言で硬い表情を崩さずにいた。パオロはイタリア人を見つけたようで、―その内容は僕にはてんでわからなかったが―会話に興じていた。

 「だいぶ暗い顔をしているな。大丈夫か」隣のジーノが僕の顔色を窺って心配そうに尋ねた。

 「別に調子が悪いわけじゃないですよ。ただこれから向かうところのことを考えると、こうして黙っているのが相当かなと。みんな呑気なもんですね。普通に笑ったりなんかして」

 「まぁ別にいいんじゃないか。誰かに迷惑をかけているわけでもないし、それぞれの思いを胸に抱いて向かっているわけだろう。それは自由さ」

 「でも場の空気ってものがあるじゃないですか」

 ジーノはさも愉快そうに言った。「はは、日本人はそういうのも尊重するって聞いていたけど、本当だな。でも今から皆が暗い顔を並べて葬式にでも行くような雰囲気が必要なわけじゃないだろう?そんな、笑ったらだめだなんて、それこそ集団統制の恐ろしい発想じゃないか。その恐ろしさをこれから見に行くんだろ」

 僕は言い返せずに口をつぐんだ。ジーノの言うことには一々説得力があった。それは彼の肩書が自然に人格や発言を肯定していることもあろうが、何より彼の、自分は絶対に正しいと信じている表情がそうさせたのだと思う。しかし不思議だったのは、それでいて彼の様子に僕を徒に非難する悪意を全く感じないことだった。

 

***

 

 僕は仕方なく窓の外へと目を向けた。クラクフという街はひどく美しかったが、こうして一つの街を少し離れると、広がるのはうら寂しい景色だけだった。僕は車に乗らないが、例えばたまの日曜に家族で郊外に買い物に出た時のような、そんな日本でもありふれた何の感慨もない景色だった。

 クラクフの街並みは僕のヨーロッパに対する憧れに十分以上に応えてくれ、思い描いていた通りのものであったが、それは同時に日本の卑小さ、特に芸術面での日本の遅れを痛感させるもので、僕をひどく落ち込ませるものでもあった。こちらには日常のその中に芸術が溢れており、そしてそれらは皆一様に華やかで、調和がとれていて、この雰囲気に囲まれて生活しているのだから彼らが芸術に強いのも当たり前だという気がしていたからだ。

 しかし,だからと言って負の面が皆無であるわけは到底なく、そうした美の陰にひっそりと、しかし確実に大規模に広がる負の面は却って只ならぬ哀愁と孤独を感じさせ、逆説的に僕を安心させた。いくら日本から遠く離れた世界であるとはいえ、各々の独特の建築様式といったことを除けば、それは完璧にパラレルなものではなく、あくまで延長に過ぎないものに思えた。そう考えると、翻って日本とヨーロッパがここまで似るのも不思議だなと思った。生活のシステムというか、街づくりというか、そういったもの十把一絡げが似通っていた。それがグローバリズムによって得られた意図された世界基準というものなのか、あるいは人間が自然にたどり着く必然なのか、僕にはわからなかった。

 窓から見える「オシフィエンチム」の看板がアウシュビッツに近付いていることを静かに示した。僕自身も知らなかったくせに、この本来の地名より、ドイツ語名であるアウシュビッツという方が有名で一般に使われることを歯がゆく思った。

 荒涼とした農村の広がるオシフィエンチムの景色は僕を酷く憂鬱にさせた。有名なゲートが見えるのかと目をこらしたが、どうやらまだ視界には入らないようだった。

 

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 車は駐車場に到着し、僕達はガイドに促されて車を出、レンガ造りの建物に入った。どうやらここが受付のようだ。僕達の他にもツアーはあるようで、辺りは人々でごった返していた。日本人らしき女性の姿も見えたが、話しかける気分にはなれなかった。修学旅行だろう、白人の子供の集団もいた。ポーランド人か、あるいはドイツ人かもしれない。ガイドブックによれば、ドイツの工学専攻の大学生の多くがボランティアでここに足を訪れるということだし、自国の罪を知るために小中学生が修学旅行でここを訪れるというのもありそうな話だった。ポーランド人とすれば僕達日本人が原爆ドームを訪れるのと似た趣旨であり、僕がポーランドに対して持つ親近感は、やはりこういう歴史的背景にも大きな影響を受けているのだろうなと思った。

 

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 時刻は十一時を少し回ったところで、十二時まで暫しの休憩ということだった。土産物屋があったがとても買い物をする気分にならず、僕は収容所の日本語パンフレットだけを買い、冷え切った体を温めるためにジーノ、パオロと三人でジューレックを飲んだ。このポーランド風スープがいつにもまして体に染みたのは、単に寒さのせいだけではなかった。

 

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***

 

 「さぁ、みんな集まったわね。これから皆さんにはアウシュビッツを見学してもらうわけですが、ここから先は十五人程度のグループに分かれてここ専門のガイドに付いて行ってもらいます。サービスセンターで端末とヘッドフォンを受け取って、それを身につけてください。チャンネルを合わせるとガイドの声がマイクを通して聴ける仕組みになっています。終わったらまたここに集まって、バスに乗ってビルケナウに向かいます」とガイドは笑顔で言い放った。

 アウシュビッツのガイドは体格がよく、目付きがしっかりとした白人男性であった。ここのガイドになる為には難関の試験を突破しなければならないらしく、近隣諸国の人も多いという。日本人のガイドも一人だけいるようだったが、二人も一緒だし、英語の勉強も兼ねてということで見送った。

 

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 センターを出てすぐ目に入ったのは、例の”ARBEIT MACHT FREI”のゲートだった。思ったよりずっと小さかった。これはドイツ語でWork Gives Freedom、「労働は自由にする」という意味であり、当時のドイツの一般的な労働標語で、日本語訳は中世ドイツの諺である「都市の空気は自由にする」をもじったものだろう。

 しかし、もちろん、実際には働けばそれに応じて自由になるということはなく、形式的に被収容者を鼓舞する物に過ぎなかった。待ち受けるのは死しか無かった。その真相を知った今ではいかにも虚しく感じられるその言葉だが、これを信じて労働に励んだ人々がいただろうことを思うと安易に虚しいなどということは出来なかった。

 それとも被収容者もこの門が詭弁に過ぎないことはわかっていたのだろうか。ARBEITのBが上下逆に、つまり上の方が膨らんでいるのは、これを作らされた被収容者のせめてもの抵抗の証とする説があるそうだ。

 

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 ガイドが険しい表情で僕達に語りかけた「ここアウシュビッツは、はじめポーランド人の政治犯を収容することを目的に作られましたが、次第に当初の目的を離れて、ユダヤ人、反ナチ、ロマ等を収容するようになりました。そのためあまり規模は大きくなく、被収容者の増加に従い作られたのが、第二アウシュビッツとも呼ばれるビルケナウです。そちらは完全にユダヤ人収容を目的に作られ、規模も凄まじく、作りも粗末です」

 

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 確かにアウシュビッツは思ったよりもこじんまりとした印象だった。高圧電流が流れていたという有刺鉄線で長方形に縁取られた敷地の中にレンガ造りの建物が整然と並ぶ。パンフレットによれば、その建物の半分ほどが博物館として公開されているようである。

 「うわ、これは……」

 まず初めに建物に入り、目を瞠ったのは被収容者から奪った大量の毛髪、カバン、メガネ、靴などの展示だった。それらがガラスケースの中に大量に積まれていた。

 

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 「これらは分別され、使える物は再利用されました。アクセサリーや金歯など、金に換えられるものは本部に送られて売り捌かれ、戦争の資金として利用されたわけです。」 

 「これは……ひどいな。一体どれだけの数なのか」パオロが信じられないといった様子で口を開いた。

 「でもさ、何だかこれだけ大量にあるのに、恐ろしいんだけど、寒気がするんだけど、何だか遠い世界のことに思えて実感が湧かないな。なんでだろう」僕も大量の靴から目を逸らさずに答えた。するとジーノが言った。

 「それは逆に大量に有りすぎるからだろうな。これだけたくさん、固まってあるとさ、『死』というものが一つの巨大な記号としてしか見られなくなるだろ。感情や背景が、全て度外視されてしまう。大量殺戮の怖さはここなんだ。十と百じゃ大きな違いだけど、十万と十一万じゃ、もうどれだけの違いがあるかわからないだろう?ただ『莫大だ』ということくらいしかわからない。普通の生活をしている人間にとっては途方もない数だからな。段々感覚が麻痺していく。本当はえらい違いがあるのに」

「確かにそうだな。でもこの死の奥一つ一つにはそれぞれの苦しみがあったんだよな」パオロが悲しげに言った。

「そうなんだよ。それを忘れちゃいけないんだ。俺はさ、前に言ったけど、アムステルダムアンネ・フランクの家に行ったんだ。アンネの存在は、日記が本として出版されて、そういう施設があって世界的に知られているだろ、でもその陰には、迫害されて収容所に送られ、そして殺された名もなきユダヤ人たちが大勢いたんだよ。アンネはそのうちの一人に過ぎないんだ。ここにある大量の靴の奥にも、その靴を履いて俺達みたいに普通に生きていた人がいて、その一人ひとりにアンネのような一人の人間としての生活や家族や友人があったんだ。そのことだけは忘れちゃいけないんだよ」

 僕とパオロは口をつぐんだ。ジーノは続けた。

「諸説あるけど、ナチスに殺されたユダヤ人の数は六百万にも上ると言われる。でもな、それは『六百万人が殺された事件があった』んじゃないんだ。『一人の人間が死んだ事件が六百万回あった』、そう考えないといけない。一人ひとりの人間の死に思いを馳せてみな、そうすればナチスのやったことがいかに恐ろしいかわかるよ」

 ジーノの言うことはもっともだった。しかし、人間の性として、自分とは無関係な他人の大量な死よりも、一人の身近な人間の死の方がよっぽど悲しく、辛いものだろう。そういうのを想像力の欠如というのかもしれないが、想像力というのも、結局はそういう遠い世界の話をいかに自分のことに引き寄せるかということで、結局他人のことは他人のことなのだろうか、と落胆する思いだった。パオロの言った感心と感動ということにも繋がるが、他人の死は理屈抜きで僕の心を打つものではなかった。それはあくまで冷静な、理性的な感情による間接的な悲しみに過ぎなかった。それはどこか嘘っぽく、粉飾され欺瞞に満ちたものだった。人格という高尚の衣を纏った虚栄でしかなかった。

 

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 次に訪れた部屋には、ヨーロッパの地図のパネルがあり、どこの国からどれだけの人数がここに送られてきていたのかを示していた。もっとも多かったのはやはりポーランド人であるが、東欧はもちろん、フランスなどの西欧、イタリアなどの南欧、ノルウェーなどの北欧と、ヨーロッパ全土に及ぶものだった。

 そのパネルの向かいには痩せ細った被収容者の写真があり、それはより直接的に僕の胸を打つものだった。彼らは収容の理由、国籍等で区別され、それを示すバッジが胸に付けられた。それによって待遇も変わるが、一番酷い扱いを受けたのはダビデの星をつけたユダヤ人だった。

 

***

 

 その建物を後にして、次は隣の棟に移る。ここは実際に人々が収容された房がいくつかあった。どこも何もない粗末で冷たい部屋だった。

 「暖房器具はあったんですか」僕は堪らずガイドに訊いてみた。ガイドは無言で首を横に振った。極寒の中こんなところに居ては体が持つ筈はなかった。

 そして最も恐ろしかったのは立ち牢というところだった。ごく狭いスペースに何人もの人が詰め込まれ、食事も与えられず、座って寝ることも出来ず、ただひたすら長時間立たされた。しかも、信じがたいことに、これは何か問題を起こした被収容者への懲罰のためではなく、単に見せしめとして彼らの体力を奪うために使われたということだった。労働力である彼らの体力をみすみす奪うようなことをなぜするのか。結局ナチスにとって彼らは使い捨ての道具でしかなかったのだ。

 外に出て五号館と六号館の間にあるのが、数多くの銃殺が行われた死の壁だった。

 

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 「これが今の牢がある棟のすぐ隣にあるのは、ここの銃声を響かせて恐怖心を高めるためだったと言われています。見て下さい、棟の下に穴が空いているでしょう。あれは音を中に入れるためのものだと言われています」ガイドは淡々と語った。

 「ひどいことするな」パオロが言った。

 「ほんとだよな。でもさ、毎日こんなところでそういう暗い過去を話すなんて、ガイドの心中もお察しするよな」僕は誰ともなく、話を変えるように呟いた。

 「まぁな。でもどの仕事もそういうものだろ。俺にもよくわかんないけどな」パオロが言った。

 

 有刺鉄線を出て少し離れた所にあるのが、いよいよガス室と焼却炉だった。

 

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 この場所の恐ろしさがそうさせたのかわからないが、寒気がして、頭がぼうっとして、どれくらいそこにいたかわからないほど一瞬のうちだった。

 思ったよりも狭く、息苦しく薄暗い部屋は、何の起伏も凹凸も無く、のっぺりとした長方形の箱で、それゆえに、ただ天井にぶら下がった偽のシャワーが不気味な存在感を放っていた。シャワーを浴びると言われた人々はここに裸で閉じ込められ、チクロンBという化学薬品によって殺され、そして隣の焼却炉で焼かれた。

 

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 「こんな恐ろしいことが、今から七十年前に、同じ人間によって行われたんですよね……」焼却炉を出た僕は茫然として言った。

 「そうだな。それも、一部の人間の狂気によって一過的に行われたんじゃない。ドイツという大国が計画的に、大規模に、戦争の間何年も続けたことなんだ。これは間違いだとかその程度で済まされることじゃないよ。一つの民族を迫害することを掲げた政党が圧倒的な国民の支持を得て、それを盾にこんな施設を作って公然と殺戮をしていたなんて、人間というものは恐ろしいよ」

 声が無かった。ドイツという国に恐怖を覚えた。人間はつくづく浅ましい生き物だと思った。自分の身を挺してまで他人を守ろうとする聖人君子のような者がいる一方で、何の罪の無い人々を無残にも殺す者がいる。これだけ振れ幅の大きい生物は無論人間だけだろう。しかし、翻って、そうした無償の愛と大量殺戮の裏に流れる共通項は無いだろうかと考える時、果たしてそれは一種の盲目な純粋さではないだろうかと思った。

 他人の為に何かをしようという奉仕精神は、しかし本当の意味で利他的な行為なのだろうか?往々にしてそれは自分の英雄的行為に酔う自己満足的な行為に過ぎないのではないだろうか。もし本当に完全なる利他的行為があるとすれば、それはあらゆる利害を無視した盲目的な行為であるとさえ言えるだろう。大量殺戮を理性的政策的に出来る人間がいるとは思えないし、思いたくもい。一部の狂気が巨大化し、後に引けなくなった盲目なのだろうと僕は思った。

 

***

 

 ツアー参加者の輪に入った。アウシュビッツツアーも終焉である。涙目の白人の老婦が僕達全員の疑問を代わってガイドに問いかけた。

 「でも……そもそもですけど、どうしてヒトラーユダヤ人を差別したんですかね」

 「それはですね、色々な俗説があってはっきりとしているわけではありませんが……。反ユダヤ主義への転向は十代後半から二十代前半にかけて五年間のウィーン時代に行われたようです。ヒトラーはある意味純粋で正義感の強い青年のようでしたから、マルキシズム、そして少数派であるユダヤ人にも当然関心がいった。でも初めから否定したんではなかった。むしろ彼らの過去や冷たい風当たりに同情する側だったんですよ。しかし当時のウィーンは、市長を筆頭に全体として反ユダヤ的傾向が強かったんです」

 「でもそれだけでこれほど酷いことをするとはとても……」老婦が応じる。他の参加者も固唾を呑んで言葉を待った。

 「いえ、もちろんそれだけではありません。ユダヤ人はアインシュタインマルクスフロイトをはじめ、優秀な人物が多い。20世紀初頭のドイツのノーベル賞受賞者の内、ユダヤ人は実にその二十五%を占めていたんです。人口はたったの一%に過ぎないにも拘わらず。ユダヤ人の中にはもちろん街を脅かす浮浪者のような者もいましたが、大部分は大都市に住み、高い生活環境の中、金融業や商取引等で名を馳せました。そうした彼らの活躍一切が純粋なヒトラー少年には好ましく思えなかったのかもしれません」彼はさらに続けた。

 「ヒトラーはご存知のようにオーストリア出身です。それだけに人種や民族に対する関心は元々あったんでしょう。ドイツの中での自分のコンプレックスがねじ曲がった形で現れてしまったのかもしれない。少数であるユダヤ人が大国ドイツの中で活躍する様に怒り、……というよりは不安に近いかもしれませんが、何かしら感じたのは間違いないのでしょう」

 僕にはこれが他人事に思えなかった。僕自身は純粋な日本人で、無神論者で、無宗教であり、普段からそういう民族だとか差別だとか考えたことも無かったし、差別意識も取り立てて無かった。無いつもりだった。それはひとえに日本が島国であり、基本的には単一民族から成り立つ国家であるからであった。北や南に行けば例外があるからそうもいかないだろうが、東京で生まれ、そして育った僕にはどうも遠い話にしか思えなかった。しかし実際に大戦中も半島に対する差別意識はあり、そして今もそれは残っている。一番に近い国であり、近年では積極的な交流が図られているが、一度関係が構築されると、かつて上に立っていたというプライドが割って入り、それが対等であることに只ならぬ恐怖を感じ、否定しようとする。かつては鎖国を敷き、他国からの人口流入が少なかった日本は、大戦を経たこの時代になって、そうした問題を抱えることになった。

 そしてそれは僕自身も同じで、例えばスポーツの試合で日本が負けそうになると、なんで日本があんな国に負けるんだと必死になり、そうしてその後で、そんなことを考えている自分に気付き、嫌になるものだった。それは単純な愛国心から来る応援ではなく、相手国に対する敵意と、親が子供を叱るとき、予期せぬ正当な反撃を食らった時に起こるような、日本があらゆる意味で上に立たなくてはいけないという焦りに他ならなかった。世論の風潮もそうで、その敵意は内にも及び、帰化した選手の活躍で勝利を得た時など、それを中傷する声すらあった。

 一方で、そうした敵意は、日本を大戦で負かし一時期占領していたアメリカにも向いた。最近では、小さい頃は何も考えずに楽しんでいたハリウッドの映画を観ている時ですら、あぁ日本は昔この国に負けたんだと思うと、どこか純粋に楽しんではいけないような気すらした。クラクフに来てアメリカ人教師と話す機会もあったが、その人物がどういった人かということを越えて、この人は大戦で負けた僕ら日本人を馬鹿にしているんじゃないだろうかという卑屈な思いが脳裏にあった。歴史を学び、先人の偉業や失敗を知り、それを今後に役立てることは何の異論も無く重要なことであり、アウシュビッツ訪問もその一つであるが、こうなると、最早歴史なんかそもそも知らない方がいいのではないかとさえ思ってしまうほどであった。僕が半島やアメリカについてこうしたねじ曲がった思いを抱くのは、かつての差別や占領の事実を知っているからで、そんなことを知らなければ何も考えず対等に接せられるのにな、と思うからだ。それがする側であろうとされる側であろうと、「差別や支配があった」という事実は事実で、であるならばそれには何らかの理由があるかもしれないし、何の根拠も無かったことであれ、間違いなく実際に経験している人が今もまだこの世界にいるのだと思うと、やはり意識せずにはいられなかった。実際、もし僕がユダヤ人と会う機会があったら、過去の歴史に触れていいのか、一切気にしない方がいいのか、同情したらかえって相手に悪いか、そんな余計なことを思うだろう。

 勿論、事実としてあった以上それを知る義務が僕達にはあるし、それを風化させていいはずもないということは理屈ではわかっていた。しかし、それは例えばイタリア人は皆陽気だろう、というようなステレオタイプと合わせて、皮肉にも異文化交流の際の弊害になった。

 アウシュビッツは一つの象徴に過ぎず、世界史上には数えきれない差別があったが、にも拘わらず差別意識が無くならない人類はなんて愚かなんだろうと思ったが、そういう僕も、日本に帰って日常の生活に戻れば、ここで見たことなんか忘れて、平気でそういうことを考えるのだろうかと想像すると悲しかった。結局人間は自分の身が一番かわいくて、それを守る為に意識的に敵を作るものなのかもしれない。

 ふと、小学校のときの担任の言葉が頭をよぎった。僕のクラスの生徒が小さな問題を起こし―それが何かは忘れたが―それが音楽教師の耳に入り、そのせいで音楽の練習が暫く中止に追い込まれた時だった。僕の学校では、全校生徒がクラスごとに吹奏楽をする風習だったのだ。僕のクラスの生徒は、一斉にその一人を糾弾した。いじめとまでは行かないまでも、それに近いものがあった。それは練習が出来ないことへの憤りというよりは、そうやって悪口を言うことで優越感に浸りたいというつまらない感情によるものだったと思う。一人の失敗がクラス全体のものになる集団責任は子供ながらに酷だと感じたものだが、彼とは別段仲良くも無かったし、彼を救うことで自分もその対象になることを恐れた僕は、皆と一緒になって陰口を叩いたりした。そうしてそれを見かねた担任がホームルームで言った言葉が、強烈な印象に残っていたのだった。「人っていうのが一番団結する時はどういう時だかわかるか。それはな、みんなが共通の敵を作った時なんだよ」

 それからどうなったかはよく覚えていない。しかし、その言葉はそれを言った担任の表情もあいまって、強い説得力を持って当時の僕の心を動かした。なるほどそういうものかと思った。そしてこうして大学生になって差別のことを考えると、本当にその通りなんだなと改めてその悲しい真理の存在を思い知った。結局、集団を支え求心力を得るための真理というのは、愛情だとか友情だとかそういう美しいものではなく、周りに対する共通の敵意なのかもしれない。大戦で劣勢を強いられたドイツが団結心を取り戻す手段が、ユダヤ人という少数者を共通の敵とすることだったのだろう。

 僕はそんなことを思いながらセンターに戻り、男性ガイドと別れ、音声機器を返却し、センターを出て、バスに戻った。ジーノやパオロと言葉を交わす気分にはなれず、窓の外に広がる荒涼とした大地を眺めた。

 

***

 

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 程なくビルケナウに到着し皆で揃ってバスを降り、門をくぐった。すると眼前には、今や先程のゲートと並んでアウシュビッツ=ビルケナウの象徴だろう鉄道引き込み線が伸びていた。先程と違い専門のガイドが付くことはなく、女性ガイドがそのまま僕達を誘導し説明した。

 

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 「列車がここに入ってくるとSSの医師ヨーゼフ・メンゲレが人々を労働に耐えうるか耐えられないかを選別しました。耐え得ると判断された者は収容所で労働、耐えられないと判断された者―主に子供や老人、女性ですが―はそのままガス室へと送られました。この選別によってどちらかが助かるというわけではなく、死ぬのが早くなるか少し後になるかの違いに過ぎません。厳しい労働の後殺される方が残酷かもしれないですね」

 ジーノが口を開いた「俺は映画で選別の様子を見たけど、そりゃ酷いもんだったよ。人々はみんな裸で、それをメンゲレが分けるんだけど、考えてる様子なんてありゃしないね。そりゃ膨大な数だからさ、一目見るなり一瞬でどちらかに分けるんだ。あんな適当に人間の生死が決まるなんて信じがたい。右か左か指差す姿はまるでクラシック指揮者かと思うほどの速さで、彼は死の天使と言われた。人体実験を牽引したのも彼だよ」

 「狂ってるな。そうとしか思えない」パオロが呟いた。

 「いや、でもどうやらそうでもないらしい。ナチスの掲げる人種主義の信奉者であったのは確かみたいだけど、やはり仕事の上でそうしてユダヤ人を殺すのが本当に正しいかどうかは悩んでたみたいだ」

 「……何だか、そうやって人間的な部分を聞かされると少し同情しちゃうけど、そんな同情の余地なんてこれっぽっちもないんだよな。世の中ってさ、そういう異常犯罪者みたいなやつらを、ある種の英雄とする向きがあるだろ?僕はそういうの見てると心底嫌になるんだよな。被害者のこと少しでも考えたら、そんなこと考えられないとおもうんだよな。いずれにしても、精神異常じゃなくてこんなことをするなんて、何だか夢みたいだよ」パオロが遠くを見るようにして言った。

 判官贔屓という言葉が頭を過った。普段真面目な顔をして社会の中で大人しく過ごしている人ほど本当は批判の対象となる反体制的なものに憧れ、しかし実際にそれを自分で行う度胸は無く、結果的にそうした犯罪者を英雄扱いすることになるのだった。加えてその犯罪者に少しでも同情すべき要素、例えば金銭的事情とか家庭環境だとか、そういうものがあれば、精神的に病んだ末の痛ましい犯行、日本人が好きそうなそれは一つのドラマになるのだった。僕はここまで分析している気分でいるが、勿論僕もその内の一人、いや、とりわけてその趣向がある者と言ってよかった。僕は白衣の男が優雅に腕を振る様子を頭に浮かべて憧れる自分がいることに気付いていたが、必死に否定しようと頭を振った。

 鉄道引き込み線を左に見て、僕達は立ち並ぶバラックの一つに入った。煉瓦造りのアウシュビッツと違い、こちらは極めて粗末な造りで、隙間という隙間から冷たい風が容赦なく吹き抜けて行った。中心には簡易式便所が備え付けられ、常に悪臭が漂い、被収容者に与えられたのは藁敷き程度で、加えて食事はパンと具の無いスープだけだったとガイドが説明した。「そうした極めて劣悪な環境の中で、死亡者は後を絶ちませんでした」  

 

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 バラックを出て、脇に赤いバラが並ぶ引き込み線に沿って歩き、それが途切れる場所の脇には、ガス室であったという無残な建物の残骸があった。敗戦の色を感じ取ったドイツは、戦後の裁判でこの収容所の悪行が明るみに出ることを恐れ、撤退の前に破壊していったとのことだった。

 そして、遠くに見える僕達が入ってきた門に向き合うように整然と並ぶのが、各国語で記された慰霊碑であった。そこにはこう書いてある。

 「ヨーロッパの様々な国の、およそ百五十万の男性、女性、子供、そして主にユダヤ人がナチスによって殺されたこの場所を、永遠に、絶望の叫びと人類への戒めの場とする。 

 アウシュビッツ=ビルケナウ 1940-1945」

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 (2011年夏 ぺんぎん)